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人里の森と谷


by 1950hiro

金沢・金沢城、兼六園

H21.5.3 曇り
前田利家と金沢城
ここ金沢は24歳頃に訪れて以来30数年ぶりですっかり整備されている。大河ドラマの加賀100万石の城下町、前田利家に思いを馳せる。
金沢城は天文15年(1546)金沢御堂より始まり、加賀一向一揆の拠点として城内に創設された。
本山である本願寺から僧侶が下向し寺内町が形成される。
寺内町に金沢の多くの人が集まり、北陸門徒の信仰の中心地となり、経済的にも政治的にも本願寺を支える一大勢力となった。
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天正年間に入ると本願寺と一向一揆は全国的各地で織田信長の軍勢と戦いが繰り広げられた。
信長の命を受けた柴田勝家が金沢に進攻し、1580年勝家とその甥、佐久間盛政によって占領され金沢は最初の城主となった。
天正10年(1582)本能寺の変で信長は没し、その後の覇権をかけた柴田勝家と羽柴秀吉の争いは翌賤ヶ岳の戦いで秀吉の勝利に終わり、秀吉に服属した前田利家が石川・河北の加賀二郡を与えられ能登七尾から金沢城に入る。
利家は大がかりな城の整備に取りかかり、天守閣の創建や本丸周辺の石垣構築、大手口の付け替えなど城の根幹に関わる工事を行った。
利家によって整備が始められた金沢城は、本丸を中心に、東丸、二の丸あたりが城域となり、三の丸や二の丸御数寄屋、新丸などは重臣の屋敷が配置されていた。
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慶長7年(1602)10月晦日の落雷で天守閣が炎上消失し利家時代の象徴がなくなった。
その後、現在に至るまで天守閣が再建されることはなく、本丸には物見を兼ねた三階櫓と本丸御殿が建てられた。
寛永8年(1631)の火災でも金沢城は被災し、翌年辰巳用水が整備され、城の機能の中心が本丸から二の丸に移された。二の丸御殿は元禄年間(17世紀終わり頃)千畳敷と言われるほど広大な建物となり、加賀藩の中央政府として重要な位置をしめるほどになった。
宝暦9年(1759)の火災で城内はごく一部を除いて全焼し、三階櫓、本丸御殿、二の丸御殿はすべて消失した。その後の復興では特に実用性に主眼がおかれすべての機能が二の丸に集約された。
さらに文化5年(1808)の二回大きな火災を受けその都度再建され、明治期まで存続した。
平成13年菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は文化6年(1806)に再建された形に復元された。
度重なる火災に何度も遭遇し今の金沢城菱櫓などの復元があることがわかった。
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金沢城址に隣接する兼六園
入口の桂坂口は連休とあわせたくさんの人が訪れていた。30数年ぶりの感動!
霞が池の徽軫灯篭(ことじとうろう)、形が琴の絃を支える駒(琴柱)に似ているところからついている。
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霞が池は天保8年(1837)に掘りひろげられ広さは5800平方メートル。
島は蓬莱島(ほうらいとう)不老長寿を表わし亀の甲の形をしているので別名、亀甲島(きっこうとう)と言う。右端の岩が亀の頭だ!
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兼六園菊桜
開花期は4月中旬から5月中旬ごろで、花の色は濃い紅から薄紅、落下が近くなると、ほとんど白に近い色に変わる。
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一つの桜に花弁が300枚を超え、ちょうど菊の花のように咲き、落下の時は花柄ごと落ちる。
この時期だけに見られる桜とあって思わず感動しました。
昭和3年(1982)天然記念物に指定された初代兼六園桜は昭和45年に枯死している。
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霞が池の左は内橋亭
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金沢から自宅まで約350km走破無事帰省
仙台から弘前、鯵ヶ沢を経由し五能線を日本海海岸線沿いに南下し1600km、5日間の長距離ドライブでした。5月6日は仙台までの950kmを無事走破した。
by 1950hiro | 2009-06-10 23:28