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人里の森と谷


by 1950hiro

夕鶴の里

H21.6.12 曇り
鶴の恩返し
むかしむかし、新山に金蔵という若者がおりました。ある日、薪売りの帰り道、子供たちにいじめられていた鶴を助けてやりました。その夜、道に迷った女が一人、訪ねていきました。見れば、足にけがをしています。金蔵は一晩泊めてやることにしました。次の日、女は「お礼のものを織ります。これから七日間、織るところを決して見ないでください。」と、機を織り始めました。女は、飲まず食わずで織り続けました。心配になった金蔵は、七日目にとうとう戸を開けてしまいました。そこではやせ衰えた鶴が一羽、自分の羽を抜いて機を織っていました。「私は、この前助けていただいた鶴です。これが、私の恩返しです。」と織り上がった布を渡し、飛び立っていきまいた。鶴が残した織り物は「まんだら」で、金蔵は近くの寺に納めました。この寺は、「鶴の織ったまんだらのある寺」ということから、いつしか「鶴布山珍蔵寺」と呼ばれるようになりました。
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ここ山形県南陽市漆山地区には、古くから鶴の恩返し伝説が伝わっている。その「夕鶴の恩返し」伝説は江戸時代の古文書に記されており、記述としては日本で最も古いものとなっている。
午後の夕暮れ誰もいない境内は山門と庭園が調和し、禅寺の雰囲気が色濃く心が洗われるような空間だった。
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鶴布山珍蔵寺は、仙台伊達家とゆかりの深い曹洞宗輪王寺第二世極堂宗三和尚によって、寛政元年(1460)に開山された古刹。
文化元年(1804)に編まれた「鶴城地名選」にも記されているように、「鶴の恩返し」が開山縁起として伝承されている。本堂正面には「鶴布山」が掲かっている
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珍蔵寺
北条郷漆山に在り珍蔵寺はもとは金蔵寺といい、ところの民金蔵という者平生樵(ものへいぜいこり)してその日の柴を宮内の町へ売りて帰るさに市中一つの鶴を売らんというものあり、金蔵極めて貧しいけれども柴の代六百文にてしいてあがないてすなわちこれを放しやり鶴悠然としてようめいにはいる、その夜一の賢婦来たりて金蔵に宿を借りそのうえ夫婦と成ならんと言いければ金蔵、吾もとより家貧しく御身を育てる事もならず脇へ行きたまえと言いたればその女、我別にくふうあり貧しさを案じたまうなと言いいて遂に夫婦と成りにたる、その夫婦より絹を織りて金蔵へ一巻を与えたれは、金蔵驚き怪しみながら宮内の町へ行きて売りたるに町人おおいに驚き、唐織りなりとてたちまち十五両の金に買う、金蔵大いに悦び家に帰り見ればそのおんなすでに行きどころをしらず、金蔵思案にたえずして遂にその十五両にて小庵を結び出家渡世して鶴の冥福を祈りたる、またあがないし人、跡にしてその織物をよく見れば皆鶴の毛なり、且はその事を聞いて織物を金蔵に返したれは今に鶴の毛織として寺の什物と成りてあるとそ、寺の名も金蔵の名に依りたるかいつの日よりか珍蔵と言う。
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フラワー長井線おりはた駅を降りるとすぐ、丸屋根と2棟の夕鶴の里資料館、語り部屋館があり、その右には織機川(おりはたがわ)と鶴巻田、左の山麓に鶴布山珍蔵寺(かくふざんちんぞうじ)、民話に登場する地名と名前が点在している。
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南陽市は明治以降製糸の町としても栄えていたところで民話と製糸に関連した資料を一堂に集めた夕鶴の里資料館がある。正面入り口左には「殖産益国の碑」があり明治時代の県製糸業発展の先駆者と言われる多勢長兵衛氏を称えた石碑が建立されている。
多勢長兵衛は、天保3年(1832)生まれで優れた製糸機械を導入するため、政府設立の富岡製糸工場などを視察して、明治6年(1873)地元漆山に器械製糸工場を設立、この時、富岡から優秀な女工数人を招き従業員の指導と品質の向上に努めた。宮内・漆山地区では、製糸業の地場産業として発展し、その基盤を築いた恩人である。
また、米沢藩第9代鷹山公(ようざんこう)・上杉治憲(うえすぎはるのり)(1751~1822)は、名君の誉れ高く藩経営に力を入れ、度々の財政危機や飢饉から人々を救ってる。なかでも養蚕を国産第一の産業として奨励、寛政9年(1797)には本丸・三の丸奥を蚕室(さんしつ)にし、機織り(はたおり)を下級士族の内職にするなど、官民あげての生産向上に努めた。
北条郷の養蚕(ようさん)は寛保~宝暦年間(1741~1763)に始まり、米沢藩による安永4年(1775)「養蚕手引」の配布など積極的な奨励策もあって、蚕は重要商品作物としての地位をしめていく。
最初は、年1回」「春蚕」の飼育だけだったが、桑木(そうぼく)の品種・仕立て法などの技術改良により、江戸後期には「夏蚕」、明治初期には「初秋蚕」「晩秋蚕」、そして最盛期には一部「晩々秋蚕」と、最大5回もの収穫が可能になり、米と二分するほどの農業分野にまで発展した。
明治に入り、本格的な海外貿易の始まりとともに、政府は主要輸出品として生糸に注目、明治5年(1872)には品質確保を目的に、洋式官営富岡製糸工場(群馬県)を開設した。このころから、米沢藩以来の養蚕地帯としての実績を背景に、宮内・漆山から製糸家として独立する人々が現れ、南陽市一帯に機械化した工場を次々に建設していった。
大正から昭和にかけては技術も向上、独特の沈繰法による「羽前エキストラ」などは、最上級の生糸にランクされた。
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館内での珍蔵寺にまつわる「夕鶴人形劇」ビデオをひとり鑑賞し、当時の人々の暮らしぶりを一部再現している。夕鶴の金蔵の生活が見えるようだ。
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夕鶴を生んだ木下順二は戦争中にもかかわらず、東大大学院で英文科を選び文学や芸術を志し、純粋に劇作に精進した。やがて創作された作品の一つ一つが苗木となって育ち大きな芸術、文化を形成させてきた。
その代表的作品が「夕鶴」であり「山脈」(やまなみ)・「風浪」(ふうろう)・「子午線の祀り」等々である。夕鶴の主演女優山本安英はそれとの出会いによって「魚水中にいるように」自らの可能性を掘り出し比類なき演技を会得し、それが1037回という上演につながっている。
また、1952年(昭和27年)教科書に掲載され、以来30有余年にわたって小中高生の芸術作品として鑑賞、劇作としての経験、国語の教材として子供たちの心の中に定着していった。
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「鶴女房」から「夕鶴」、鬼や山姥(やまんば)・河童(かっぱ)のような異類(人間以外の動物・精霊・妖怪)の登場に、子供たちは喜びます。天女を妻とする「天人女房」は、紀元前からアジア全域に広がっていて、日本にも入り込み、キツネやカエル、魚、はまぐりなどが嫁にくる話にうまれかわりその中でも、助けられた鶴が恩返しにくる「鶴女房」は、悲しいがこころ洗われる美しい物語となって、今に語り継がれている。
「鶴の恩返し」または「鶴女房」といわれる話は、全国で245話が語り伝えられている。人間に助けられた鶴が女房に姿を変え、自分の羽で布を織って恩返しをするという、「異類婚姻譚」の中では最も美しい民話となっている。
大部分に共通しているのは、布を織っているところを見てはいけないという約束を、人間が破ることによって起こる悲しみです。あらすじは、ほぼ全国共通だが、地方ごとに少しずつニュアンスが違い、それぞれおもしろさが工夫されている。
「岡山県御津郡」では
むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日おじいさんがは、子供たちにいじめられている鶴を助けてやりました。次の日、きれいな娘が訪ねてきて、「二人の子供にしてください。」と頼みました。子供がなかった二人は大喜び。娘は毎日、機を織りました。娘が織っ反物は高く売れ、二人はだんだんお金持ちになりました。ところが、ある日突然娘がいなくなり、水の中に一本の針が入った皿が、機部屋に残されていました。寺で見てもらうと、「播磨国の皿池」の意味だろうという見立てでした。おじいさんが訪ねていくと、そこにはたくさんの鶴が群れていました。群れの中から、一羽の羽がない鶴が現れ、「私は、おじいさんに助けていただいた鶴です。恩返しにと、羽で布を織りましたが、とうとう羽がなくなってしまい、故郷に帰ってきたのです。」と言いました。おじいさんは、泣く泣くおばあさんのところへ帰って行きました。

おりはた駅のすぐそば、踏切前より南方面の田園風景
「鶴の恩返し」と機織り伝説がそのまま引き継がれ養蚕と機織りがそのまま地域産業となったような不思議な漆山地区と南陽市だった
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南陽市は歴史の流れとともに数多くの伝説も残され、幾年月を経て語り継がれ先人達の歴史がこの山あいにあった。民話の故郷がここにもあったことを記憶に新しくした今日一日だ。
佳子が幼稚園の時に夕鶴の演劇をし、見ていた母も、先生方々からも鶴の羽で機織りしていたところが大変よくでき感動したとの話をお母さんから最近聞いた。実家にはその時創った白い皿に朱の文字「鶴の恩返し」絵皿を並べて大事に飾っていた事が今お父も初めてわかった。どんな記憶で残っているのか知りたいものだ!
by 1950hiro | 2009-07-18 23:13